漢文を楽しもう②  孔子の論語に學ぶ 「學而」

「論語」は孔子先生(紀元前552~479年)が、弟子たちに話してくれたことをまとめて書き残したものです。

 

古代中国(諸子百家)の時代の学習は、教室に生徒が集まり先生が講義するという形式ではなく、先生の周りに生徒が集まって指導を受けるというものでした。

当然黒板に書いたり、教科書があったりするものではありません。

 

生徒は先生の口述を繰り返し復唱して学んでいくので「子曰」は、「先生が生徒にこうおっしゃた」というのです。 

 

では、「學而時習之」とは、どんなことでしょうか。

子曰           しいわく

學而時習之        まなびてときにこれをならう

不亦説乎         またよろこばしからずや

有朋自遠方來       ともあり、えんぽうよりきたる

不亦樂乎         またたのしからずや

人不知而不慍       ひとしらずしていきどおらず

不亦君子乎           またくんしならずや

 

孔子先生がおっしゃった

学んだことを復習するのは

喜ばしいことだ

友(朋)人が遠くから訪ねてくれるのは

楽しいことだ

他人に理解されなくても気にしないのは

立派なことだ

生涯、「學」ぶことの意味とは、

「勉強が嫌いだ」という人がいる。

 

本当に嫌いなのだろうか?

 

人間は向上心を持っている。

好奇心が人間の能力を高めてきたのだ。

 

簡単に「嫌いだ」という人は、多くの場合「自分が学びたいこと」に行き着いていないだけである。

実際に、自分に関心があることについては誰もが貪欲である。

 

例えば、スマホでゲームを楽しむには、スマホの使い方を勉強しなければならない。

「理解して使いこなす」と、楽しいはずである。

「学ぶこと」「わかること」は楽しいからである。

 

スマホだけではない。

 

勉強嫌いだという人が、スケボーの高度な技をマスターするために、貪欲に努力をする。

鏡の前で必死でヒップホップダンスの練習に励んでいる人も、楽しくなくては続かない。

 

彼らはやりたいことがわかっている。

 

何度も、何度も、先人の教え・技術を真似して、復唱してレベルアップを図る。

 

まさに努力して。

 

苦労して、「楽しからずや!」である。

 

 

孔子が言っていることは、「詩経」「書経」という中国古典の学習である。

 

この場合は、周時代からの宮廷祭祀の歌・歌謡や歴史の学習を指すが、私たちにとっては、教科書にそって学ぶことと考えたらいい。

 

「學」という字をよく見て欲しい。

 

真ん中に「乄」が2つありますね。

 

1つメは、伝統・文化・歴史を勉強すること。

2つメは、先生や友人と交流することと理解するとよい。

 

よく見ると、左・右両方の「手」で2つのメを囲っていることがわかる。

 

それが「學」の本来の意味である。

 

それをカンムリで支えて、「子」が入る。

カンムリは「学び舎」を指す。

すなわち校舎である。

「子=弟子」たちは、学び舎の中で勉強する。

 

それが「學」の意味である。

当用漢字の「学」ではわからなくなってしまうから注意しなくてはならない。

 

この文字の意味・内容を知るだけでも「楽しく」なりませんか?

 

私は、どんどん進んでいく「ITの用語」が苦手である。

 

あまりにも新しい用語が使用されている。

「パソコンの機能」だって、私には不要で分からないものが多い。

「わからないでは済まされない」ので、周囲の仲間の力を借りて、何とかついていっているが、大変である。

 

しかし、新しいことを知るのは楽しい。

 

このように、生活知識としても学習は不可欠である。

 

これからは、ますます「いつでも・どこでも・誰でも」学習する姿勢が要求されるだろう。

 

2歳の幼児が「デジタル端末機」で遊んでいる時代である。

89歳になる先輩は、「徒然草」を暗唱して認知症を防いでいると笑っている。

 

人間は一生学び続けるのだから、「楽しくなくちゃ」いけません。

 

私には、全国各地にたくさんの友人がいる。

 

学生時代からの友人もいれば、仕事で知り合った知人も多い。

折を見て、私は友人を訪ねるが、私が住んでいる静岡に来てくれる友人も多い。

私たちは年配になっても「夢」を語り、「自分たちがなすべきこと」を語り合う。

前向きで建設的な会話は楽しい。

充実していると言ったらよいかもしれない。

 

孔子の時代と違って、交通が便利になったから「朋友が遠方から来る」という感じは希薄だが、時には外国からの友人も見える。

先日は女房の友人からドイツの美味いチョコレートをもらった。

異なる環境で、異なる生活をしている知人・友人との交流は楽しい。

 

まさに「有朋自遠方來不亦樂乎」を実感する。

 

 

私には、有名・無名の友人がたくさんいるが、著名かどうかなんて問題じゃない。

昔は権力の座に合った人も、マスコミで華麗に舞っていた人も、地道に草取りをしていた人も、生命の流れでいえば、「誰も平等」である。

 

不平・不満を言っている人は相手にされない。

他人が認めているかどうかなんて問題じゃないからだ。

賢い人は「やるべきだと思ったことをやる」に徹している。

 

誰もが「楽しいからやっているだけのことだ」と笑う。

 

私も割り切って行動している。

 

少年時代にサルトルの「行動する知識人」という言葉にあこがれ、そうなりたいと努力して来た。

どこまで達成できたかわからないが、努力した。

 

こうした生き方に共感する人も、批判する人もいる。

しかし今や、無理解も誤解も通り越して、自由に好きなように行動している。

 

LEADESTの支援もその中の一環である。

LEADESTの前川塾長が、私が顧問をしていた東京個別から独立して、自分が理想とする塾を開きたいというので、タイミングを見て支援することにしたのだ。

 

もはや、教育は学校だけでは立ち行かないレベルになった。

だから、「塾や予備校の教育力を強化する必要」がある。

金儲けだけではいけない。

 

しかし「理念」と「経営」の両立は難しい。

 

だから、講師と塾生の教養の深化と共に、大学受験のプロとしてのノウハウを伝授したいと思っている。

それでいいじゃないか。

 

・・・これが、孔子の言葉の「人不知而不慍不亦君子乎」の意訳である。

 

解釈は自由である。

 

私は君子ではないが、不平・不満を言っているより、よほどましである。

楽しいからである。

 

「論語」は庶民の生き方を書いたものではない。

統治者階級(貴族社会)にあるものが取るべき人格・態度・教養・姿勢を述べたものである。

 

この点に注意しないととんでもない間違いをする。

最近の政治家も「論語」を学び直した方が良い。

このままでは、庶民はたまったものじゃない。

 

 

2014年度の入試センター試・国語で「士大夫」が出題されたが、

理解できなかった人が多い。基礎的な知識と教養が不足していたからである。